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豊前の歴史

求菩提山

求菩提山

求菩提山(国指定史跡)は、福岡県豊前市のほぼ南に位置する、標高782mの円錐形の山です。かつて「一山五百坊」と形容された山は、豊前修験道のメッカとして英彦山とともに大きな役割を果たしました。山内には修行の場や山伏たちが生活をした坊跡、堂宇、墓など当時を偲ぶことが出来る多くの遺構が遺されています。平成13年(2001)には国の史跡に指定され、わが国を代表する修験の山として評価されました。また、山麓の集落は「求菩提の農村景観」として、平成24年(2012)国の重要文化的景観に選定されています。

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求菩提資料館

求菩提資料館

県立の資料館で山岳宗教の聖地と呼ばれる求菩提山の修験道遺品を展示しています。国宝銅板法華経(レプリカ)をはじめ、仏像、神像、古文書文書など2,000点近くを収蔵、展示しています。また黒田官兵衛時直筆の「桜狩の歌」などの貴重な資料も所蔵しています。

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如法寺

如法寺

求菩提山護国寺の末寺の1つとして、写経所の役割を担いました。また、求菩提山の北東方向に位置し、山門には金剛力士像が置かれ、悪魔や邪霊が入らないよう「鬼門封じ」としての役割も果たしていたといいます。戦国時代には宇都宮氏滅亡とともに焼失しましたが、江戸時代に黄檗宗の寺院として復興され、現在では蓮の花が有名となり蓮寺とも言われています。

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岩洞窟

岩洞窟

求菩提山の修験者は、窟のん中に篭り自らの肉体を極限にさらすことで法力を得、加持祈祷を行うことによって人々を救おうと考えました。厳しい修行場の窟の天井に描かれる飛天は、修験者たちの極楽浄土を表現し、如来の教えをたたえることを意図するのかもしれません。

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千手観音立像

千手観音立像

樟材による一木造りで像高211.2cmの大きさをほこり、平安時代後期でも早い時期に作られたものと思われます。像は樟材の一木造りで、頭部は小さな宝髻(ほうけい)を結び、天冠台(てんかんだい)を彫り出し、垂髪(たれかみ)は束ねて耳から両肩の天衣にかかるように彫り出されています。顔は張りが強く、切れ長の眼に小振りの鼻、唇が表現され、全体に童顔にまとめられています。また、肩からかかる条帛(じょうはく)、天衣には軽やかな流を見ることが出来ます。合掌手(がっしょうしゅ)は臂(ひじ)のところからつけられていて、千手観音独特の脇手は扇状の板に半肉彫りに刻まれ、光背風に作られています。その特徴から古様な仏像で、平安時代後期でも早い時期に作られたものと考えられています。昔、母乳の出が悪い母親がここの湧水でお粥を炊いて食べたところ、よく出るようになったという伝説から、別名「乳の観音」とも呼ばれています。

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蔵春園

蔵春園

蔵春園は、文政七年(1824)恒遠醒窓によって上毛郡薬師寺村に開設された漢学私塾で、恒遠塾とも呼ばれました。恒遠醒窓は、十七歳の時、儒学者広瀬淡窓が主宰する私塾・咸宜園に入門、五年間を日田の地で過ごし、塾頭を務めたりもしました。長崎遊学後、二十二歳で故郷に帰った醒窓は私塾を開設、爾来、教育者としての道を歩み続けることになります。醒窓の死後は、その子精斎が塾を継承し、明治二十八年(1895)までの七十年間、蔵春園の教育は続けられました。その間、この塾の門を叩いた者は三千名にものぼると言われ、その出身地は九州はもとより、中国・四国・近畿・東海・北陸の各地に及んでいます。そして、明治維新革命の魁となった勤皇僧・月性や志士白石廉作、真宗教団内で「豊前学派」と呼ばれる一派をなして注目を浴びた東陽円月など、多くの素晴らしい若者が、ここから巣立っていきました。

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中津街道

中津街道

豊前の国を南北に貫いて小倉と中津・宇佐を結ぶ「中津街道」。街道沿いには、江戸時代や明治時代の賑わいを伝える町家がわずかながら残り、当時の雰囲気を味わうことができます。海の見える木造の豊前松江駅。1850年創建、2層3階建ての珍しい鐘楼のある教円寺。商店街には創業100年を越える時計店に老舗酒屋、人気のパン屋、飲食店などが並びます。

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